ダルトン・トランボ・ローマの休日の真の脚本家の悲劇・世界一受けたい授業

第2次世界大戦のさなか、ハリウッド映画の世界にダルトン・トランボという脚本家がいた。

 

自分の思想を貫くことで、ハリウッドから追放されたダルトン・トランボ。

 

彼の脚本家としての不遇の人生について調べました。

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ダルトン・トランボについて

ダルトン・トランボは1905年12月9日生まれのアメリカの映画の脚本家、監督。

 

その脚本家としての能力は大変高く、ハリウッドでも名をはせていました。

 

「恋愛手帖」という作品では早くもアカデミー賞にノミネートされ、その名声と地位は盤石なものでした。

 

しかし、1940年代、第2次世界大戦のさなか、アメリカの下院議員で行われていた「共産主義者排斥」という思想の弾圧によってハリウッドを追われた人物です。

 

いわゆる「赤狩り」と呼ばれた共産主義の弾圧によって、ダルトン・トランボはハリウッドの中でも特に強い共産主義をもっているされた「ハリウッド・テン」というメンバーに数えられ、当局に目をつけられてしまいます。

 

そんなときにダルトン・トランボが書いた「ローマの休日」の脚本が、ダルトン・トランボの名前では発表できず、代わりに友人のイアン・マクレラン・ハンターに譲られました。

 

そしてイアン・マクレラン・ハンターとジョン・ディントンという小説家の手によって「ローマの休日」は手直しされ、制作発表されました。

 

そして「ローマの休日」はアカデミー賞原案賞を受賞しますが、ダルトン・トランボがそれを手にすることはありませんでした。

 

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不遇の脚本家、ダルトン・トランボ

下院議員による思想の質問にも、ダルトン・トランボは一貫して自身の「内心の自由」を主張して、自分に不利な発言はしませんでした。

 

実際にダルトン・トランボは共産主義でしたが、ハリウッドでも「思想の自由を守ろう」という動きが出始めていました。

 

しかし、表舞台で名前を出せなくなったダルトン・トランボは最終的には刑罰を受け、禁固刑になります。

 

出所した後もひそかに生きるためにメキシコに移住し、いわゆるB級映画の脚本を描いて生活をつなぎます。

 

しかし映画人たちにとっては優秀な人材であるダルトン・トランボの脚本が安く買えることをよころんだといいます。

 

「ローマの休日」と同じく別の人物の名前のクレジットでアカデミー賞をとった「黒い牡牛」という作品にも、ダルトン・トランボは評価を受けることができませんでした。

 

ダルトン・トランボが再び映画のクレジットに戻ってくるのは最初の弾圧から約20年後の1960年代です。

 

「スパルタカス」という作品によってやっとダルトン・トランボは映画のクレジットに戻ります。

ハリウッドの追放から13年後のことでした。

 

ダルトン・トランボの死後、「ローマの休日」や「黒い牡牛」が本当はダルトン・トランボの作品であったことが公表され、ダルトン・トランボにはやっと本物のオスカー賞が与えられました。

 

まとめ

時代の流れに翻弄されながらも映画人として生きる決意をし、生きたダルトン・トランボ。

 

自身の思想の自由、そして脚本家として表現の自由を追求した生き方は、現代の社会にも大変示唆するところが大きいのではないでしょうか。

 

自分の信じた道を生きるということの尊さを考えさせられます。


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